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農業について想ふ

最近、「農業」が「食の安全」に関連して、そして「雇用の受け皿」さらには「成長産業」として注目を浴びているがその実態、本質はいかばかりか。

食の「安全」には大別して3種類の意味がある。第一は、中国製の毒入り冷凍餃子事件やメラミン入り中国製粉ミルク問題等に代表される食品そのものに関する安全性であり生産者に起因する。生産者がグローバル化している現在、生産国の安全・衛生等に関する認識、制度、文化の違いにより引き起こされるリスクが常に内在する。中国製品に関するリスクはその象徴的事例である。生産過程におけるそうしたリスク除去(安全管理、品質管理)の仕組みが欠かせない。

中国に進出しているあるメーカーに、中国での生産は確かに狭義の生産コスト(原材料、人件費等)は安いが、品質管理のためのコストの方がそれ以上にかかると伺ったことがある。メーカー製品と違い、直接、人体に入る食料品においてその安全管理・品質管理コストはいかばかりか。本当にそれだけのコストをかけて生産しているのであろうか。

第二は、産地偽装事故米に代表される流通・販売に関わる仕組みの安全性である。これは仕入れ値と売値のギャップを不法に大きくしようとするものであり、制度設計の歪みと流通ビジネスに関わる事業者の倫理の欠如により引き起こされるリスクである。そこにおいては、透明性あるいは情報公開、さらには消費者への説明責任の仕組みが不可欠である。

わが国の現在の仕組みはPL法(製造物責任)等、製品の瑕疵・不具合に対する責任はほとんどメーカー責任とされているが、本当にそれで良いのか。そうした製品を取り扱い流通させた流通者・販売者にも責任をシェアさせる仕組みがないと抑制機能が働かない。そういう意味ではユニクロに代表される「製造小売」という形態はそうした責任を丸ごと引き受ける仕組みと理解できる。農業の世界で言えば、本来は農協が役割(製造流通)を担っているはずであるが実態は心許ない。最近の加工業者、販売・サービス業者による生産委託という製造小売り形態の増加がそのことを物語っている。

第三は、食料自給率・食糧安全保障論に代表される非常時における食糧確保に関わる安全性である。これは生産、流通、消費の全プロセスにわたる政策・制度設計のギャップに起因するリスクである。

これはすなわちわが国の農業・食糧に関する政策・制度設計の問題そのものである。これだけ、農業・食糧を取り巻く時代環境・国際環境が変化しているのに政策・制度という仕組みがほとんど変わっていない。政策・制度設計は当然ながらステークホルダーのパワーバランスの中で決まる。農業に関して言えば、圧倒的パワーを有しているのが農家(農地所有者)農協(金融・流通者)であり、農水省(制度設計者)である。これらパワー・ステークホルダーパワー・トライアングルがいまもって健在が故に、時代の流れとのギャップがますます大きくなっている。農業の特殊性をもってしても、もはや限界であろう。

かように、食の安全に関するリスクの根は深く構造的である。それ故に構造的な仕組みとそこに内在する問題を国民一人ひとりがきちんと認識することから本当の議論が始まる。表層的な議論では何の解決にもならない。年金問題を見れば明らかなように、誰もがこれまでその実態を認識していなかった。その実態認識がようやくここに来て始まり、リスクを国民が自分のものとして認識し始めた。食の安全もまた同様である。

農業を論じるとき、まずは農業そのものの持つ歴史性、文化性を理解することが基本である。例えば、日本の農地について明治の地租改正(税金を徴収するために土地の所有権付与)までは農地は使用権(地域によってはクジによる割り当て制)であったことや、第二次世界大戦後、地主が所有する農地をただ同然で小作人に強制的に払い下げさせたこと等をどれだけの人が理解しているか。

そうした歴史的事実に対する認識があれば、農地の都市的用途への転用による差益の独占、あるいは耕作放棄地のまま放置しておくことの是非についていかに考えるか、もっと違った形で深い議論が可能となる。

堺屋太一氏も「超高齢社会にとっての成長分野である医療、介護、教育、放送、農業は官僚統制で資本も人材も流入しない、技術の新本も経営の刷新も行えない状況に置かれている。結果、輸出中心の製造業依存型経済に。官僚統制からの脱皮を。」(日経ビジネス2009年4月13日号)と指摘している。

こうした構造的問題を抱える農業に対して、昨年末からの雇用環境の急激な悪化を受け、にわかに農業が雇用の受け皿になる、雇用の受け皿にしようという機運が高まっている。しかし、それは本当に可能か。単に一時的な雇用調整をこれまでなり手がいなかった農業に期待しているだけではないのか。農業の難しさ、農作業の厳しさを知った上での論か。実際に就業しようとする人に覚悟はあるのか。はなはだ心許ないのが実態ではなかろうか。

農業は自然の時間軸でなされるスローな産業であり、効率性とスピードを徹底的に追求する金融・サービス業や製造業とは明らかに時間軸が異なる。産業としての成り立ちの根本が異なる。

スローな自然時間軸の例として、「アグロフォレストリー」(農業と森の掛詞によるによる造語)がある。たまたま本年正月3日の夜23:10からのNHKの番組「アマゾンを救う森づくり! 日本人移民の挑戦 アグロフォレストリーが熱帯雨林を再生」をみたがそれによると次の通りである。アグロフォレストリーとは、植林をして森を育てるためには時間を要するため、そのインセンティブを兼ねて1年目に胡椒を育て2年目にバナナを育て、現金収入を得つつ、それらを収穫した葉を地面に撒き、微生物が育つ土壌づくりに活かし、ブラジルナッツやカカオを育てる。これらは30年間実をつけるため換金できる。30年以上経ったブラジルナッツの木はこれまた立派な木材として売れる、という仕組みである。これは自然の時間軸の流れの中で、自然界の仕組みを活かしつつ農業と森林を再生するというものである。しかも、それが立派に現金収入を生み仕組みにもなっており、農民の自立の手立てとなっている。

農業は成長産業の可能性を秘めているとも言われることがあるが、非農業業種のような成長スピードを想定することは大いなる誤解であろう。たっぷりとした時間と手間暇をかけてこそ可能な業種であることを考えると、その担い手の太宗は若者よりも、退職して公的年金受給者で田舎暮らしをしてみたいという元気なシニアかも知れない。

一方で、農業もまた技術・ノウハウの固まりであり、農業が業としてビジネスとして成り立つには人材・経営力が不可欠である。上述した元気なシニアだけでも成り立たない。本来は、生産者の協同組合である農協がこうしたプラットフォームとしての機能を果たすべきであるが、信用・共済事業が存立の主軸となってしまった現在の農協にそうした方向での再生が期待できるか。

いままさに、農協とは異なる発想による仕組みの「新たなプラットフォーム」の創発が急がれる。競争環境がなければ何も変わらない。