ビジネス・インサイト

半年ほど前、大学の同窓会の講師にこられた先生<徳島大学医学部卒で、現在は東京大学政策ビジョン研究センター教授(医学博士)>の講演は、アメリカ帰りのMBAホルダーらしく、医師らしくないマーケティングの話が中心で、興味ある内容が満載であった。そのなかで、未だに記憶に残っているのが次のような言葉である。

  • 売れる商品=商品力×マーケティング
  • 満足度・重要度は消費者が決める
  • “Perception”を起こさせるのは“Unmet Needs”
  • 重要な2つのキーワードは”Relevance”と”Insight”
  • これからは、“技術”よりも“感性”
  • “Trust”とは人に頼らないこと
  • ・チャンピオンデータだけでなくすべてを見せる

参考までに、「英辞郎 on the WEB」で英語の和訳を下記に示しておく。

  • relevance  〔検討中の課題などとの〕関連(性)、妥当性
  • insight    物事の実態[真相]を見抜く力、洞察力、眼識、見識、識見、物事の本質を見抜くこと
  • unmet need   満たされていない欲求
  • perception  〔感覚器官による〕知覚、認知

これらの中でも特に印象に残ったのがインサイトという言葉である。その後、いろんなところで使われていることに気がつき、いつか、この言葉についてじっくり考えてみたいと思いつつ、半年が立ち、ようやく今般、石井淳蔵著「ビジネス・インサイト」という文庫本を読むことができた。

本書はマイケル・ポランニー(ハンガリーの物理化学者・社会科学者・科学哲学者)の「暗黙的認識」を骨格として書かれている。マイケル・ポランニーについては、「松岡正剛千夜一夜第千四十二話(2005年5月30日)を読めばよくわかる。

著者は、「学者のクライアントは実務家ではなく学者なのである。クライアントが実務家だという人は、コンサルタントであって学者ではない」、「人類が誕生以来、営々と築いてきた『知の伝統』に対して、それへの批判も含め、いかなる貢献ができるのか、これが学者の一番の関心事なのである」と明確に主張する。最も重要な成果が同業学者が認める論文であり、最も重要な場が同業学者が集う学会ということからして、まことにもってそのとおりである。近年、大学に対する近視眼的あるいは短期的評価軸による研究成果を求める声が強いが、それに媚びることなくこうした主張を聞くと心地よい。

ビジネス・インサイト―創造の知とは何か (岩波新書)ビジネス・インサイト―創造の知とは何か (岩波新書) 著者:石井 淳蔵 販売元:岩波書店 発売日:2009-04 おすすめ度:4.0 クチコミを見る

この本の最初に出てくるのが松下電工会長(当時)であった三好俊夫氏の「強み伝いの経営は破綻する」という言葉である。これは、自分あるいは自社が保有するリソースを有効活用して、尺取虫みたいに一歩一歩伸ばしていくやり方(実証型/仮説検証型)であるが、三好氏は「このやり方は、管理者がいれば十分で、経営者不在でもやっていけます」と言う。しかし、時代はそれよりも早く動くので置いていかれる、斜陽になる。だから「経営者は跳ばなければいけない」ということになる。いい言葉である。

今の日本を見ていると、管理者はいるが、責任を取る覚悟を持ってリスクテイクし「跳ぶ」経営者は少ない。跳ばずにコーポレート・ガバナンス/内部統制にばかり目が行っている。当然、イノベーションは起きない。世界に置いていかれる。日本全体が斜陽化する。経営者(「組織」)が跳ばないのであれば、「個人」が跳ばなければいけないが、個人がリスクを取って跳ぼうとすると、よってたかって叩かれる。結果して、誰も跳ばなくなる。

日本社会の構造的問題はさておき、著者は、この「経営者が跳ぶ、そこには経営者が将来の事業についてもつインサイトの存在がある」と考え、それを「ビジネス・インサイト」と名づけ、そのキーワードは「暗黙に認識する」ことと「対象に棲み込む」ことであると言う。これは前述したマイケル・ポランニーの概念である。

著者曰くマーケティングのコンセプトは「作ったものを売るのではなく、売れるものを作る」ことにあり、そのコア手法/市場分析手法としてのSTPがあると説く。経営/マーケティングコンサルタントが商売道具として使っているものである。

Segmentation 市場細分化

Targeting 市場での目標設定

Positioning 市場での位置取り

このSTPから導かれるのは、顕在化しているニーズであり、当然、他社も同様の結論に達する可能性が大である。一方で、前提条件が変われば結論が変わる。著者はこれを先述した「強み伝い」の戦略のひとつの帰結と言う。

市場という常に変化する社会を対象にする場合、その社会条件の普遍性/再現性は乏しい。再現実験が可能な物理的な境界条件とは異なる。従って、マーケティングの調査結果なるものは、その前提条件、被験者集団に左右されるものであり、一つの事例結果に過ぎないことを十分認識しておく必要がある。ユーザ/市場の評価がダイレクトにすぐわかるWEB2.0時代は、スモールスタートし、市場の反応を見ながら軌道修正していくほうが確かである。

強み伝いによる先細りを避けるために必要になるのが、断片的事実から全体を見通す力、将来を見通す力=「インサイト」であると著者は説く。つまり、今は存在しないが将来のビジネス(モデル)になる創造的なヒラメキあるいは確信を得た創造的瞬間がビジネス・インサイトである。冒頭に紹介した”unmet needs”の 掘り起こし/顕在化/獲得ということではなかろうか。

本書では、このビジネス・インサイトの事例として、次の3つをあげている。

(1)宅配便を起こした小倉がニューヨークのマンハッタンの四つ角でみた4台の集配車をみて「集配密度」という概念が閃き、宅配便の事業化に踏み切れたこと

(2)ダイエー創業者の中内が駄菓子をプリパッケージしてセルフサービスで販売する「商品化」(生産者の論理で作られた商品を消費者のために仕立て直すこと)という概念への昇華・発見

(3)セブンイレブンが店を絶えず訪問して気づいた「小分け配送」と「集中エリア出店」策(現在で言えば、多頻度小口配送/ミルクラン方式)

確かにこれらは「強み伝い」の発想では出てこない。こうしたインサイトを得るには、常日頃そのことに関して考え続けていなければ生じないであろう。それが「対象への棲み込み」と表現されているものである。「棲み込んで初めてインサイトが現れてくる」のである。

さらに、マーケティングにおけるインサイトの事例として、あるスーパーから上がってきた要望がきっかけで生まれた「きっと勝つ」(ストレス・リリース)という「キットカット」の新しいコンセプト、そしてそれをきっかけに媒体との共生価値創造や消費者の経験の中で生まれる価値に焦点をおいた新しいマーケティングモデルが生まれた事例をあげている。これもまた、従来のSTP志向からは生まれない。

こうしたインサイトを得た瞬間すなわち閃いた瞬間、「今までの自分を縛り付けていたフレームの力が弱まり、逆に新しい何かに向けての創造力や連想力が活性化してきた瞬間」となる。これは別の表現をすれば、石井威望風に言えば「スコープの拡大」ではなかろうか。何れにしても、このような活性化を引き起こす新しい概念/知の革新性こそがイノベーションの大きさを規定すると思われる。

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫) 著者:マイケル ポランニー 販売元:筑摩書房 発売日:2003-12 おすすめ度:4.5 クチコミを見る

このインサイトは、マイケル・ポランニーが「知の暗黙の次元」で主張したことと同じメカニズム(機制)を持っていると著者はいう。「知の暗黙の次元」=暗黙の認識tacit knouwing、「それとしらないうちに知ってしまう」力であり、よく言われる「暗黙知」とは異なる。「暗黙知tacit knouwledge」は「すでに存在する知識の実態」でうまく行けば「見える化形式知化」できる。「暗黙の認識」は今はないものを感じとる力であり、そのような知の方法/プロセスである。

マイケル・ポランニーはこの暗黙の認識には次の3つの機制(メカニズム)があるとしている。

  1. 問題を適切に認識する。
  2. その解決に迫りつつあることを感知する自らの感覚に依拠して(=解の存在を確信して)、問題を追求する。
  3. 最後に到達される発見(=解)について、未だ定かならぬ暗示=含意(インプリケーション)を妥当に予期する。

そして、この機制が働く力が存在すること、その力は本人自身の認識プロセスの中に隠れ潜んで摘出(再現)が難しい。

ところで、この「問題設定」あるいは「課題設定」が実は一番難しい。これができれば「解」は自ずと見えてくる。しかし、問題は与えられるものと思い込まされて育った者にとって、自ら問題設定、条件設定することは難しい。

著者は、「ビジネスインサイト(成功の鍵となる構図をいち早く発見し、その可能性と意味を確信し、現実の変革に向けて努力や資源を傾注すること)は暗黙の認識と似ている。未来に向けての意味ある全体の存在を確信するプロセスは存在する。それは実証的/検証的プロセスとは異なる創造的プロセスである」と主張する。

ポランニーは、「暗黙の認識には対象に棲み込む契機が不可欠である」と指摘しているが、それはビジネスインサイトを考える上で中核となる考えであると、著者は指摘する。そして、「眼前にある手がかりあるいは対象(つまり近位項)に棲み込むという契機を経て、そこからその背後にある『意味ある全体』(遠隔項)を見通す」という。

「対象に棲み込む」とは次の三つの態様があるという。、

  1. 人に棲み込む(=文化人類学の「共感的理解」)
  2. 知識に棲み込む(知識を使い込み、知識のあらゆる可能性を探ること)
  3. 事物に棲み込む(事物のあらゆる可能性に考えをめぐらすこと)

要するに、対象に棲み込むとは、表層的/表面的な理解、あるいは既存視点での理解ではなく、対象物になりきって深いところで自ら体感するあるいはあらゆる可能性を探るということではなかろうか。著者の言葉を借りれば、「近移項である対象物に棲み込むことを通じて初めて、その向う側にある包括的意味(遠隔項)を把握できる」、「近位項と遠隔項の強力によって立ち現れる存在こそが(ビジネス)インサイトに他ならない。包括存在が新たに立ち現れると、それを構成する人も知識も事物もそれまでにはない新たな意味を帯びてくる」ということになる。

筆者は、こうしたビジネスインサイトの学問的観点から、「偶有性」(必然でもなく不可能でもない様相)という概念が経営学研究の課題になることにも言及しているが、研究者向けなのでここでは割愛する。ただし、次の問題設定の考え方は役に立つ。

  • × the study of X ⇒ この設定では無限の時間が必要になる
  • ○ the study of X in Y ⇒ X:ケース対象、Y:視点(関心を限定する上で不可欠)

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすときイノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき 著者:クレイトン クリステンセン 販売元:翔泳社 発売日:2000-02 おすすめ度:5.0 クチコミを見る

最後に筆者は、新しい経営の実践のヒントとして、二つの研究をあげている。一つのはクリステンセン「イノベーションのジレンマ」である。「リーダー企業の交代は、技術世代が変わるごとに顧客(=市場)が変わる点にある」「いくら想像を巡らせても、その想像内に未来の顧客、未来の市場が入ってこない」「価値は、技術や製品の中にアプリオリに存在するわけではなく、技術と欲望のマッチングの中で生まれる」「何が起こるか分からないこの未来の市場に対して、最初の機会にすべて投資してしまうべきではない。ある市場機会に過剰に思い込むな」

ネット資本主義の企業戦略―ついに始まったビジネス・デコンストラクションネット資本主義の企業戦略―ついに始まったビジネス・デコンストラクション 著者:フィリップ エバンス 販売元:ダイヤモンド社 発売日:1999-11 おすすめ度:4.5 クチコミを見る

二つ目は、エバンス/ウースター「ネット資本主義の企業戦略」。「ITが引き起こすデコンストラクション(従来の事業定義が破綻し再編成されること)」の理論的意義は次の3つである。」

(1)事業を構成する要素はすべてが変数

(2)戦略が現実を創り出す

(3)アイデンティティは目的のみ(共同への意志)

最終的に筆者は、「従来の啓蒙型マーケティングは通用せず、これからの企業にとっては、『顧客との共同制作物をつくる』という感覚、『共生的価値』、『共同への意志』が重要」と締めくくっている。

本書を読んでわかったことは、常に「高みに跳ぶ」ことなくして持続的成長はありえないこと、イノベーションを起こすには「対象物に棲み込み」、考え続け、体で感じ、熟成していると、何かのちょっとしたきっかけでそれらが一瞬に新しい概念・体系に昇華する瞬間が得られる、それこそがインサイトであるということである。

このインサイトの出発点は、自ら「高みに跳ぶ」という自覚である。自覚なくしてインサイトは得られない。こうした自覚を持ち、自律した個人をめざす人々が大宗となる社会の現出を期待したい。そうした社会的プラットフォームづくりに貢献したい。