建設業の今昔 そしてこれから

「土建国家から福祉国家へ」。「コンクリートから人へ」。そして「小沢問題」。建設業が、土木事業(=公共事業)が悪者にされている。本当にそうであろうか。「土木事業」と「土木事業を食い物にする仕組み・輩」とは区別すべきである。本質を冷静に見極めて欲しい。

そもそも「建設業」、昔流に言うなら「土木建設業」、略して「土建屋」。小生も実は土木工学科卒である。入学の頃は、田中角栄氏が全盛期の頃で日本列島改造論で盛り上がっており、工学部の中で最も入試の競争率が高かった花形学科であった。それが今や「土木工学科」を掲げている大学すら殆どなくなった。「建設工学科」「社会システム工学科」「社会基盤学科」「社会環境工学科」・・・。寂しい限りである。

もともと、有史以来、為政者は優れた土木技術者(為政空間管理土木)でもあった。それは国を治めるために不可欠であったからである。治山・治水、農業土木・軍事土木。現在の農業生産の基礎、国の形の骨格、防衛・防災の要、・・・、土木事業は「感謝の念」を持たれていた。

こうした性格が変質したきっかけの一つが1930年代の大恐慌期にとられた不況対策化である。アメリカではニューディール政策、そして日本では「時局匡救事業」(じこくきょうきゅうじぎょう)。要するに、公債発行を資金源にしたケインズ的政策であり、公共事業誘導システムさらには地方の公共事業依存の原型ともなった。

高度成長期は成長を支援するインフラ(産業・都市・交通土木)が隆盛を極め、プロジェクトも大型化した。そして、低成長期になると、生活(関連施設)土木に重点がシフトした。基本的な大型社会インフラは概成し、景気対策効果(乗数効果)は逓減する。加えて、総人口が減少に転じ、新たな大型社会インフラの需要も減少する。こうして、社会資本=公共土木の必要性と意義が低下し、「コンクリートから人へ」がスローガンとして認知される事態が到来するに至っているわけである。

現在そして今後は、環境(再生)土木、維持管理土木へ。換言すれば、再び、エリア空間管理土木にシフトすることになろう。全国のあちこちで40、50年前に埋設された水道管が破裂したり、維持管理されずにいる危険な橋梁、湛水能力の落ちたダム等々、「荒廃するアメリカ」の二の舞にならないよう「土木」がやるべきことはある。そこにおいては、「建設」ではなく、自然と調和する「土木」(コンクリートではない!)である。

土木(建設業)はまさに時代を反映している。

資料によると、2010年度予算の建設投資額41兆600億円は40年前(1970年度)の建設投資学41兆6,839億円とほぼ同額に水準にまで縮小している。しかし、建設業の就業者数は当時の建設業の就業者数394万人から100万人も多い状況にあり、一人当たりの生産性の向上を勘案すると100万人規模の就業者の縮減が不可避となる。

明らかに、需要/市場規模に対して供給/建設業過多にある。つまり、需要主導型の市場構造化にあり、需要側のあらゆるニーズへの極め細やかな対応力が鍵となる。従来のように、単なる施工のみではそうした対応はできない。今風に言えば、「トータル・ソリューションサービス」対応である。

このためには、[企画・提案−組成−施工−管理・運営・メンテ]の全体のプロセスのそれぞれに於いて強みを有する専門性の異なる企業のコラボレーションが不可避となる。

  経営・業務コンサル—建設コンサル—施工会社—管理・運営会社

明らかに、従来の一つの仕事を細切れにした業界内でのシェア型のJVとは異なる。もはや、従来の“建設業”の枠組みがそのまま残ることは考えられない。脱皮が必要である。生物は「さなぎ」から「成虫」に脱皮できるかどうかでその生死が決まる。脱皮に最大のエネルギーが費消されるという。人も企業も同じである。

「小沢問題」は従前の土木の世界の残滓を断ち切り、新たな土木の世界へと切り替わる(脱皮する)良いチャンスである。前向きに捉えたい。

アメリカのリーマンショックに端を発した金融危機はグローバルな信用収縮を引き起こし、そしてアメリカの過剰消費購買行動を収縮させ、輸出主導型の日本に実態経済の危機、さらにはデフレスパイラル危機をもたらしている。そこへ、「コンクリートから人へ」への政権ショック、さらにはドバイショック、そして今後も幾多のショックが予想されている。

こうした眼前のショックを乗り越え、脱皮を果たすには、何が必要か。土木そして建設業が時代にあったビジネスモデル(サービスモデル)に転換していくしかない。その過程に於いて、業容・業態改革が必然的になされるであろう。

「政」「官」に頼らず・踊らされず、「業法」に縛られず・寄りかからず、自らの生きる術は自らが決める覚悟で頑張って欲しい。そうした変革を支援したい。