世界は短文文化へ 短歌・俳句の粋へ

140文字のtwitterが隆盛を極めている。

振り返ってみれば、WEB掲示板、チャットも短文である。クラシファイド広告(いわゆる三行広告)も短文である。BlogやSNSは人によって長短がある。短い人は携帯電話からの利用が多い。

携帯電話がIT社会のポータルとなりつつある流れのなかで、短文化は当然の流れか。しかし、よくよく考えてみると、日本には古より、もともと短文の文化があった。それも芸術の粋でである。そう、「短歌」であり、「俳句」である。

短歌は31文字、俳句にいたっては17文字に過ぎない。これで、季節感を込めつつ心の機微を謳いあげるのである。

狂歌(五七五七七)や 川柳(五七五)もある。さらに、歴史学民俗学における落書(らくしょ)もある。

ある時、テレビを見ていると株式会社サトーという会社が30年以上前から、三行(127文字程度)による「三行提報」なるものを実践していることを紹介していた。つまり、いまでいうtwitterで三行提報を30年前から実践していた人のこと。これは驚くべき事実である。

ここにいたり、twitterは英語よりも日本語に極めて適合しているかもしれないことに気づく。大発見である。早晩、twitter上で、短歌、狂歌、俳句、川柳の世界が飛び交うことは必定なりや。

そういえば、音声認識の世界においても、子音と母音の組み合わせ日本語は極めて音声認識がしやすいとの話も聞いたことがある。いま、日本国内の企業で英語を公用語にしようという動きが一部にみられるが、上記のような言葉の持つ文化の熟度を無視して果たしていいのであろうか。

IT社会になればなるほど、その国固有のアイデンティティが重要である。特に、国語は重要である。国語が崩壊すれば、その国の文化・歴史の継承は難しくなる。WEBの世界においても、早晩、テキスト、音声の何れにおいても多元化対応母国語利用がWEBシステムの標準となることが予想され、独自の言葉・国語が生きる意味は大きい。

つぶやき(twitter)を単に流行りのつぶやき手段としてみるのではなく、そこから見えてくる奥深い仕組みについて時々はつぶやいて欲しいものだ。