[書評] ハイコンセプト 右脳型主導の個人・小集団の時代

「Daniel H.Pink,著、大前研一訳“A Whole New Mind ハイ・コンセプト 新しいことを考え出す人の時代”、2006年5月20日、三笠書房」を読み、日頃考えている“個人・小集団”に思いを馳せた。

この本は、大前研一氏が訳した本のためか、彼の名前が前面に出てくる。訳者の名前が著者よりも大きな活字になっている。そして、彼の訳したタイトルが目立ち、原題は何か、何処に記載されているか、最後の奥付でようやく分かる。そして何より、冒頭にいきなり「訳者解説」がある。著者を超えた訳者の扱いというより、「大前研一」の名前で本を売ろうとしている魂胆が見え見えである。この本の装丁の仕方、構成の仕方を見れば、どのようにして本を売るかという仕組みが透けて見えてくる。内容的には、新書本レベルのボリュームで十分と思われるが、それをこのボリュームまで書き上げる欧米人著述者のエネルギーにはいつもながら感心する。

さて、本書の構成・内容であるが、前半の第1部は要するに、これからは「右脳」型思考・アプローチが重要であると言っている。そして、そのために必要な「6つの感性」を後半の第2部で展開している。6つの感性とは、「デザイン、物語、調和、共感、遊び、生きがい」である。これまでは、左脳型の「極めて分析的思考やアプローチが大勢を占め、ナレッジワーカーの時代」であったが、「これから重要になるのは、ハイ・コンセプト、ハイ・タッチである」と言うことである。

著者は、「ハイ・コンセプトとは、パターンやチャンスを見いだす能力、芸術的で感情面に訴え美を生み出す能力、人を納得させる話のできる能力、一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力」であり、「ハイ・タッチとは、他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見いだし、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事についてもその目的や意義を追求する能力」であると定義している。

日本においては、早い段階から、“左脳と右脳”の議論・研究が進んでいる。有名な話に”虫の音をどちらの脳で聞くか”がある。これについて、『左脳と右脳の違いを調べると、音楽、機械音、雑音は右脳、言語音は左脳というのは、日本人も西洋人も共通であるが、違いが出るのは、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いていることが分かった』とある。何れにしても、本書を読んでも恐らく欧米人が感じるほどの新鮮さを日本人は感じないのではなかろうか。マーケティング、それもブルー・オーシャン戦略を考える向きにはそれなりのサジェスチョンは得られるが。

時代の流れからみて、著者は「これからのビジネスマンを脅かす3つの危機は、豊かさ、アジア、オートメーションにある」という。つまり、

?海外(特に途上国)に安い働き手にできること

?コンピュータやファクトリーオートメーションFA/ロボットにできること

?反復性のあること

は先進国のビジネスマンにとってはやるべき価値がなく、途上国の安い働き手やシステムなりロボットに取って代わられるという。

確かに、世界の工場やシステム開発、事務センター等々は労働コストの低いところを探して流れ込んでいる。そして、FA/ロボットも詰まるところは論理のプログラミングであり、反復性はプログラミングでき、人に置き代わっていくのも事実である。

しかし、「いまや投資銀行はインドでMBAを雇う。いまや、多くのMBA取得者がブルーカラー労働者となっている」と、専門的知識労働者でも左脳的分野領域はブルーカラー化すると言い、「いま、世界で最も注目されている資格は、MBAではなく、美術学修士MFA(Master of Fine Arts)である」と紹介しているが、ここまで言われると、本当?と問いたくなる。

さて、要するに、左脳的な合理性、論理性、機能性は、いつかは誰がしても遅かれ早かれ同じことに収斂し、結果として製品やサービスのコモディティ化を招来する。マーケティング理論でいうところの価格勝負の“レッド・オーシャン”化である。そうなると、差別化はデザインや物語性といった人の機微や価値観に直接、訴求する部分のみということになる。これはまさしく右脳的世界である。この本の著者も、「近年、利益を上げている日本の輸出品は、車や電気製品ではなく、ポップ・カルチャーなのである」と指摘している。日本のアニメやゲームソフトが念頭にあるのだろう。

時代の流れ著者は時代の流れを図のように認識している。こういう整理の仕方は欧米人の得意とするところである。要するに、現在は「情報の時代」で、「豊かさ、アジア、オートメーションの3つの要因が浸透すると、コンセプトの時代が幕開けする」という。別の表現をすれば、「体力に頼り築かれた経済から、左脳に頼り築かれた経済へ、そして今後は右脳に頼り築かれる経済に移行する」ということになる。

この右脳の世界は、“規模の経済”が働く世界ではない。つまり、大組織が必ずしも優位とは言えず、右脳型の個人あるいは小集団が経済あるいは社会のアクティビティの構成単位として重みを増してくるということを意味する。まさしく、クリエイティブな専門家個人あるいは小集団がこれからの時代には要請されているのである。そして、「人は年を重ねるにつれ、目的、本質的な満足、超越といった特質を重視するようになる」ということであれば、大企業はクリエイティブな人材をいつまでもロックインして非クリエイティブにならざるを得ない環境に拘束せず、早めにリリースして欲しい。その方が個人、企業、社会にとって有意義である。

さて、著者が言うところのこれから求められる6つの感性とは次の通りである。

まず、第1は、機能よりは「デザイン」。著者に言わせれば、「デザインとは、実用性と有意性の組み合わせ」で言い換えれば「有意性によって高められた実用性」であり、「価格と品質は市場への参入条件のクリアに過ぎない」。「豊かな時代においては、右脳にアピールするようなモノでなければ、誰も買いに来てはくれない」。そして、「市場において製品を差別化できるものはデザインをおいて他にない(ソニー大賀)」とのこと。要するに、コモディティ化した市場において、他社製品との差別化や新規市場の創出の鍵はデザインが握るようになってきたということである。確かに、デザインにより、市場を創出できるし、価格アップも図れる。

例:読みやすいパンフレット=実用性

  言葉では表現できないアイデアや情報を読み手に伝える=有意性

第2は、議論よりは「物語」。「事実は誰にでも瞬時にアクセスできるようになると、一つ一つの事実の価値は低くなる。そこでそれらの事実を文脈に取り入れ、感情的インパクトを相手に伝える能力が重要になる。この『感情によって豊かになった文脈』こそがものを語る能力の本質」で、「論理は物事を一般論として捉え、文脈や主観的な感情を排除するが、物語は文脈を捉え、感情をくみ取る」もので、「デザインと物語は、市場において自らの商品やサービスを際だたせるキーポイント」とのこと。確かに、物語によって商品やサービスのイメージは豊かになり、それをさらに具体化させたデザインと相俟って定着すればそれはまさに“ブランド”になる。いわゆる、伝説、神話は歴史を超えて語り継がれるまさに究極の物語である。宗教もまた然り。そして、こうした物語は、組織ではなく、個人の方がなじみやすい。

例:物語の基本の流れ

「導入:旅立ち ⇒主部:新たな世界に入る“イニシエーション“ ⇒結末:帰還」

第3は、個別よりも「全体の調和(シンフォニー)」。「調和とは、バラバラなものをひとまとめにする能力で、統括力、システム思考、全体像を見る能力」であり、「対象を観察し、その意味を読み取る。そして相手が理解できる言葉で表現する」とのこと。

この意味に於いて、これから成功する可能性大の3タイプとして以下を挙げている。

?境界を自分で越えられる人:要するに「マルチ」人間で、「非常にクリエイティブな人は、大多数の人がまるで気づかない関連性を捉えることができる」「境界を越えられる人は、二者択一の選択をせず、複数のオプションといくつかの解決策を織り込んだものを模索する」

?発明できる人:「ほとんどの発明やアイデアは、既存のアイデアを新しいやり方で組み立て直すことにより生み出されている」

?比喩を造れる人:「人間の思考プロセスは大部分が比喩的」。つまり、人間はイメージがないと思考がすすまないということで、それを文脈化したのが物語ということか。

第4は、論理ではなく「共感」。「何が人を動かしているかを理解し、人間関係を築き、他人を思いやる能力で、本能に近い」。そして、「人は感情を言葉で表すことはない。感情は顔に現れる。特に目」で、「眼窩筋(眉と眉下の皮膚を引き下げ、目の下の筋肉を引き上げて頬を上げる筋肉)が収縮していない笑顔の相手は偽りの友」だと言う。確かに、昔から“目は口ほどに物を言う”と言われている。これに関して、池田信夫blogにおもしろい指摘が載っている。「ASCIIコードで感情をあらわす記号をemoticonと呼ぶが、日本では(^^)とか(;;)のように目の表情であらわすのに対して、アメリカでは:-)とか:-(のように口の表情であらわす。LiveScienceによると、この違いは両国の感情表現の違いに起因するという。」つまり、日本人の方が事の本質を理解している証左か。

第5は、まじめだけでなく「遊び心」。「笑い、快活さ、娯楽、ユーモアは健康面にも仕事面にも恩恵をもたらす」「遊び心があると右脳が活性化する」「ユーモアは人間特有の洗練された知能の現れ」で、「赤ちゃんはよく笑う」と言われると確かにそうである。大人になるほど遊び心がなくなり、いつも笑ってはいられない。この笑いでいえば、ある会社の自動販売機のある喫煙ルームで大笑いして談笑していると、そこに来た女性社員が「久しぶりに社内で笑い声を聞いた」とぼそっと言った場面をいまでも鮮明に覚えている。ああ、この会社はみんな疲れているんだ、疲弊しているなと感じた次第である。ところで、「笑いには有酸素運動と同じ効果があり、心臓血管系の働きを活性化させる」と聞くと“笑う門には福来たる“は正しいと妙に納得する。

第6は、モノよりも「生きがい」。「生きがいとは、目的、超越、精神の充足であり、人間の主な関心事は、自らの人生に意義を見いだすこと」にあり、「人生の究極の目標は幸福の追求(ダライ・ラマ14世)」と言う。「品質革命 ⇒ 安さ革命 ⇒生きがい革命」という表現に納得。そして、「先進諸国は、物質的欲望から意味的欲望へ移行しつつある」と聞くと、20数年前に「これからは意味社会」と社内研修で語っていたある社会学者の先見の明に感服する。学者はこうであらねば。時代が評価する足跡を残したいものである。「何か残ることをやっているか」と会うたびに言われるさる人を思い出す。

最後(実際には本著の冒頭に記載されている)に「訳者解説」であるが、訳者大前研一は「21世紀は個人が突出した時代である」(『成功ルールが変わる』)。要するに「国家や自治体よりも、企業よりも、個人が富を生み出す時代」で、「結局は突出した個人にかなうものはない」。従って、「21世紀はいかにそういう突出した個人を見つけるかにかかっている。育てるのは難しい」と言っている。この最後の「育てるのは難しい」のは確かであり、「育ってくるのを待つ」しかない。その育ってくるための“土俵すなわちプラットフォーム”が果たしていまの日本にあるか。官主導でデジュール的に創るのではなく、民主導でデファクト的に新たに創るしかない。