[書評] 本質を見抜く「考え方」

中西輝政著「本質を見抜く『考え方』」、2007年11月、サンマーク出版

著者の中西教授に対しては巷間いろいろ言われているが、歴史観なき表層的評論(家)が溢れ、もてはやされる時代におもねることなく、「自分の頭で考える」ところの著者なりの正論を信念を持って論じているところが良い。

この本は「考え方」そのものというよりも、ものごとの本筋・本質を見極めるときの考え方や見方の「チェックリスト」を提示していると考えた方がよい。そして、そのかなりの部分が英国の留学時代に歴史学者の残した資料整理をした経験から学んだ「外交や国際政治、対外戦略というのはソフトウェアが勝負で、ハードウェアは二の次」というイギリス流の考え方、特に「外交」に範をとっているが、さらに言えば外交の裏面の「インテリジェンス」に範をとっているのではないかと思われる。

例えば、「イギリスは『情報』というものを徹底的に重視してきた」「タイミングは実務の命、ドン・ピシャリのタイミングこそ、少ないコストで最大の収穫を得る道、ギリギリのタイミングを待つことのできる強い神経が勝敗の分かれ道。このギリギリのタイミングを待つことの出来る強い神経を養う修練こそ、エリートや人の上に立つ人の大切な心得」であり、「ものごとの本質を見極め、正しく状況を把握するには、一件バラバラに見える事実と数字を根気よく集積することが不可欠で、その中からしか事実は生まれない」とイギリス流考え方を紹介している。

たまたま、この直後に読んだ外務省職員としてインテリジェンスに係わりイギリスの日本大使館にも勤務した経験のある佐藤優著の「国家の謀略、2007年12月、小学館」によれば「インテリジェンスとは、インフォメーションとは区別された情報で、情報の正確さ、その情報の背景にある事情、また、その情報がどのような役に立つかについての評価が加えられたもので、外務省は”特殊情報”の訳語を用いるが、戦前、戦中に用いられた”秘密戦”(積極諜報、防諜、宣伝、謀略が含まれる)の方が妥当」とのこと。さらに、「インテリジェンスの世界にマニュアルは存在しない。常に”自分の頭で考え”続けなければならない。一般人もインテリジェンスを活用することで、ニュースの真相と深層を読み取ることが出来るようになる。少なくともニュースの嘘に騙されることがなくなる」」と言っている。是非、こちらの本も併せ読んでほしい。学者とインテリジェンス当事者との迫力の違いがわかりおもしろいし、相互に考えていることがよく理解できる。

そして、結局は両者とも「自分の頭で考えろ」と同じことを言っている。要するに、自分の頭で考えない限り、本質は分からないと言っている。肝に銘ずべきことである。

さて、中西著の本に戻るが、まず「考え始める技術(第1章)」として、「自分とは何か」を知り、「自分自身の座標軸」を定めることが重要で、この自分を知るための「自分を映し出す鏡」となるのが、「歴史観」や「自分の敵」であるという。確かに、自分が何者で、座標軸をどこに置いているかを明確にしなければ、何を言ってもそれは自分の考え、意見ではない。単なる評論に過ぎない。

そして、答えが出ない時に「宙ぶらりんの状態に耐える精神力が必要」で、「耐えきれず早まって誤った判断を下すことが多い。宙ぶらりんの状態に耐えてこそ、たどり着いた結論が確固としたものになる」として指摘しているが、そのためには「修練」が必要であろう。最近は、若いときから、心身何れにおいても鍛えられ耐えることを経験した者は少ないのではなかろうか。

ところで、「考えることの一番わかりやすい作業化は言葉にすること」であり、「表したい言葉を探すことは、考えることであり」、「自らのオリジナリティは考えを言葉にすることでしか出すことは出来ない」と言っているが、まさしくその通りである。自分なりの言葉で自らが考えていることを書くことを通じて、頭の中で堂々巡りし、もやもやしている考えが整理できるし、さらに考え方そのものが深まる。それは、携帯電話のmailを打つのとは違う世界である。

その際、「〜は〜である、といった言い切る『定言命題』にすることによって、より考えがはっきりする」と言う。これは、マーケティングやプランニングの世界で「動詞で考える」と言われるのと同じこと。要するに、「仮説を立て、不完全なりにでもとにかく一度結論を出しておく」ことであるが、「一つのテーマに一番優等生的なものから最も悪く考えたものまで、最低三つの仮説を立て、仮説検証しながら加筆修正をしていくことを通じて自分の考えが分かってくる」とのこと。実は、この仮説を立て検証を繰り返す作業は、シンクタンクやコンサルタンツ業界においては重要な必須のステップであり、確かに「考えること」をシャープにし、無駄な作業を省く。さらに、この複数の仮説を持つことは、当ブログの1月30日に掲載した矢部正秋弁護士の「常にオプションを考える」ということと全く同じである。

なお、本質を理解することの一つに事例として作家の井上ひさしが色紙によく書く言葉として「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」を紹介しているが、実に良い。本ブログでも実践したい。

また、「イギリス人は歩きながら考える」という言葉も紹介し、「行動することを通じて集中力が高まる」と言っているが、これは日本人的感覚でいえば沈思黙考型の「座禅」に対する「行動禅」に通じるものである。

さて、「物事には必ず裏があるから、逆方向から眺めてみることが必要。冷静に、動あれば反動ありと、裏にあることを見極める」という「作用反作用:動あれば反動あり」をはじめとし、「慣性:動き出したら止まらない」「鹿威し:そろそろくるぞ」の三つのセオリー、さらには「個体・液体・気体」「正・反・合」「知性・道徳・感情」というように「問題を三つの要素に分ける」等々はまさにインテリジェンス思考であり、『考え方のチェックリスト』と言ったところか。確かにこうした多様な観点からのチェックリストを自分なりに備えていれば、常に冷静に物事に対処できるかもしれない。

ところで、「考えを深める技術(第2章)」において、「多数意見や民意、常識なるものを錦の御旗にしたら政治は乱れる。あえて栄達を求めない真剣な専門家や政治家の意見にも耳を傾け、自分の頭で謙虚に考えるべきで、それが『衆愚』にブレーキをかけることになる」といっているが、この対極がGoogleの描く世界(WWW上の膨大な情報の組織化)か。これまでは多数意見といってもそれは『サイレント・マジョリティ』を除外した歪んだ多数であり、ITを駆使しサイレントマジョリティをカバーしたレベルにおいて衆愚は大衆の英知と昇華しうるか、いましばらく様子を見てみたい。

「歴史は常に繰り返されるから、過去に学ぶ、歴史に学ぶことがものごとの真偽を教えてくれる」「歴史を勉強し、歴史から考える」という考え方は、要するに、長いスパンで物事を見ると、その時々の事情による脚色なり凸凹はそぎ落とされ、本筋だけが残ってかつ繋がって見えてくるということであろう。

さらに「あえて異端の考えを取り入れることで、考え方に深みが出る。主流と思った瞬間に、その考え方にとらわれ、深みがなくなる」「欧米人の議論を聞くときは、欧米文明は魂の世界の使命感と俗世の世界はゲーム感覚という二重性を持っている、ということを理解しておくべき」と言っている。確かに「主流」と思った瞬間から、『守り』が優先し、自在な発想・考えが出来なくなるのは当然か。

しかし、「迷いは本当の学びであり、自分を豊かにする。迷えば迷うほど、思考は深まる」「悩むことや宙ぶらりんの状態を楽しめるぐらいでないといけない」と言っているが、この心境に到達するには道は遠い。

次に「間違いを減らす技術(第3章)」では、「対立的価値のバランスが重要」とし、この対立的価値として、「物と心」「進歩と伝統」「個人と共同体」をあげ、これらの「バランスある共存を考えることが問題の解決に繋がる。性急な結論こそが諸悪の根源」という。イギリスの歴史家トインビーが「どんな社会、国、文明でも、物質的な価値観と精神的な価値観のバランスが、どちらに崩れても、一端崩れてしまうと、その社会の生命力、いわゆる国の活力は大きく視弱していく」という言葉も紹介しているが、昨今の日本は精神的価値観が希薄になり、まさにこのバランスが崩れかけた状態にあるのではないかと危惧される。

間違いを減らす具体として、「リスクが大きいときは、検算のつもりで論理を用いて穴はないか確かめるべき。論理は保険と心得るべき」「考え方においても、直感したものを論理的思考で振り返ってみることで確認作業として活用する。それだけでぐっと間違いが少なくなる」「その際、自分に都合の良い論理を調達しない」「反射的に一つの方向を選んでいると、自分に都合の良い論理ばかりを引っ張ってくる。日本人が集団として大きな間違いをするときは必ずこのパターン」と挙げているが、一方で「論理一辺倒の啓蒙思想は究極の原理主義」とも言い、著者らしい。

そして、これからの「日本の生きる道は、量的効率ではなく、質的効率にある」「違いや差別化を大切にするのが質的効率」「戦後の日本はひたすら走り続けたことで、精神が疲弊し、民族全体に疲れがたまっている状態」と指摘し「近代は終わった」としているが、現在の日本人が何となく精神的に疲れ停滞感が漂っているのは事実である。精神を癒し再活性化するにはもう一度、日本(人)とは何かを問い直すことから始めるしかないということか。

「世の中を考える技術(第4章)では、文明史論的視点から論じている。すなわち、トインビーやハンチントンの「日本は1国だけで文明圏をなす」、梅棹忠夫の「日本は文明の上でアジアではない」等を紹介し、「国単位ではなく文明単位で考えるべき」「一国で文明圏をなす日本は精神的には常に独りで立つという気概を求められている」と言う。この気概なく世界の中で漂流するばかりではいつまでたっても尊敬される国にはなりえない。世界でも日本だけが『1国1文明』と言う事実の重みを日本人はもっと真剣に論じ認識する必要がある。それこそが日本あるいは日本人の座標軸・主張を明確にすることになり、引いては尊敬される国に繋がっていくことになるのでは。

そして、「福沢諭吉はやせ我慢してでも独立自尊を保つ気概の大切さを説いている」「権力に与しないのが知識人の本道、学者として正しい姿」「いまの日本には政治家の御用聞きをする学者や評論家が多すぎる。役所や経済界のおこぼれにありつこうとする有識者も増えた」といっているのは痛快。

「歴史的に見て復活を可能にした底力はどん底から生まれている」「どん底までいったときに底力を発揮。それは精神的に立ち上がることから始まる」「それは覚悟である」が、そうした真の底力は大衆のレベル次第で、「イギリスの庶民は政治や学問の世界を握っている人間を殆ど信用していない。猜疑心を持って見張っている。民主主義も近代経済学もそもそもそうした健全な猜疑心から始まった」「草の根の庶民のクリエイティブな力がこの国を突き上げ動かしてきた」という。

さらに、著者はソ連時代のスパイ・ゾルゲの例を挙げつつ、「その国の神話にその国の思考の本質がある」と言っているが、誠に慧眼である。従って、「その国の精神的支柱を形作ったものは何かという視点で神話や歴史をありのままに読み込むべし」と言い、欧米と日本の違いとして、「日本には社会的あるいは遺伝子的にエリートが生まれる素地がない。征服民族がエリーとして今なお国を治め続けるヨーロッパとは全く違う」し、「民衆が政治と無関係で生きていけるのが大陸国家であり、ワシントンの政治とアメリカ一般社会は全くの別世界。常にこのことを念頭に置いて世の中をみるべし」という。この辺は著者らしい考え方の展開。しかし、受験歴史ではなく、本当の意味での事実ベースの日本史、世界史を各人が各人の視点で学ぶべきことの重要性は指摘の通りであろう。

疑問を抱く技術(第5章)として、「入ってくる情報には歪みがあるので、ふと浮かんだ感覚的な疑問を封じ込めない」、「誰も疑わない美しい言葉、耳に心地よいきれいな言葉は疑え」「”自由”、”平等”、”平和”、”民主”」は戦後日本人に思考停止を強いた言葉」、「都合の良い数字を並べた論理の正しさに惑わされない。」「人間は次々と命題や情報の展開に出会うと受け身に回ってしまう」、「腑に落ちないときは立ち止まる」、「反論の余地のない見事すぎる議論は先に結論ありきの可能性を疑う」、「全員一致は絶対に間違い。みんなが言っていることが正しいとは限らない。それはかえって危険信号なのだと認識することが大切」等々を挙げているがすべとその通りである。要するに相手主導の流れを止め自分の流れに立ち戻り、そもそもの出発点を疑うことから始めることが必要であるということか。

最後に、情報を考える技術(第6章)として、「本当の創造性は、変わらないものを常に意識するところから生まれる」のであり、「単なる衣替えに過ぎないものを”これは新しい”と飛びつく」ことを戒めている。

「”不変”に目を向けるといっそうよく変化の本質が見えてくる」し、「危機はまず”人身の変化”に現れる、それが形になって現れた結果が出来事」という。「その時代を生きた人々の精神のありようから起きた深いところでの”崩れ”によって、人間は自分がどちらへ進んだらいいか分からない、あるいは自分が自分をコントロールできなくてバラバラになってしまいそうな状態に陥る、それが危機」と言う。「歴史を動かしている重要な要因は人間の精神的な部分」であり、「人の心の微妙な変化はしばしば重要な予兆」と言っているが、この人の心の微妙な変化はこどもに典型的に現れるのではないか。若かりし頃、ある社会学者に「社会の将来はこどもを見れば分かる」と教えられたが、改めて納得。一方で、「日本は変わらないことに慣れ、変わることを恐れている」と指摘しているが、日本のどの層が変わることを恐れているのか、そこまで指摘して欲しかった。

何れにしても、いろいろ考えさせられる本であり、その紙背の意味をも理解するには読者側の深みを要求される本でもある。自分の頭でしっかりと考えていきたい。