STAP論文疑惑騒動について

STAP論文疑惑騒動が続いている。論文の筆頭著者(first author)である小保方さんを持ち上げるだけ持ち上げて、疑惑が起きると一転して、持ち上げたことは忘れて、これでもかと先を争ってバッシングしている。彼女の所属している理化学研究所文部科学省所轄の独立行政法人)も、一転、組織防衛に入っている。既視感のある光景が繰り返されている。若き研究者の学者生命はつきようとしている。

▼Nature 505,641–647 (30 January 2014) | doi:10.1038/nature12968

Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency Haruko Obokata , Teruhiko Wakayama , Yoshiki Sasai , Koji Kojima , Martin P. Vacanti , Hitoshi Niwa , Masayuki Yamato & Charles A. Vacanti ◇全文PDFはこちら

▼【小保方さん騒動】マスコミの「女性」利用がひと目でわかる、ねつ造疑惑前後の各社の見出しまとめ、BLOGOS、2014年03月20日 20:50

▼小保方晴子のSTAP細胞論文の疑惑

▼研究論文(STAP細胞)に関する情報等について、理化学研究所、2014年3月27日

▼STAP細胞の問題はどうして起きたのか、SYNODOS、2014.03.28 Fri

STAP論文疑惑騒動には、現在の大学・研究機関、研究者・教育者を取り巻く構造的な問題が露わになっている。

まず、大学等の予算が漸減され、競争的外部資金の獲得が組織や研究者の評価を左右する時代に移行し、特許出願・取得、著名雑誌への論文投稿、産学連携・ビジネス化に成果を上げることが過度に要求されている。一般的には、ビジネスに一番縁遠い人々が研究者・教育者になっているのにそうしたビジネス的なことを要求され、一番困惑しているのは研究者自身ではなかろうか。また、それを補うために、国立大学法人化した際に、研究・教育と経営を分離した組織形態にしたが実際の運営は意図したようにはなっていないのではと推察される。

STAP細胞の存在そのものの真贋と、論文作成上の疑惑とは切り離して考えるべきである。STAP細胞は従来の常識を覆す歴史的発見ともいわれており、現時点では論文が主張するSTAP細胞の再現及び存在確認ができていないが、一方で誰もそれを否定し切れてもいません。歴史的なイノベーションにつながるような発見は、その認知の道も険しいことは過去の歴史が物語っている。小保方さん達が「それでもSTAP細胞は存在している」とつぶやく声を是非聞きたいものである。

論文作成上の疑惑について思い起こすのが、小生の大学院生時代の論文指導を受けた自らの経験である。院生時代に、論文原稿を書いては指導教官に見てもらっていたが、冷たく「言いたいことは分かるが論文になっていない」と突き返され、論文の書き方をさんざん鍛えられたことを思い出しました。その経験は社会人になっていろんな報告書等を書く上でも糧になっている。翻って、現在の大学の指導教官は何かと忙しくて十分指導し切れていないのではと懸念される。

論文、ましてや博士論文はその人の研究者としてのスタートラインに立つものであり、魂がこもっていなくてはいけないはずで、盗用(コピペ)などあり得ない。東日本大震災及び福島第一原発事故以降、専門家の社会的信用が失墜したが、論文という知の体現物までもその価値が失墜するのでしょうか。何とも悲しいことである。

コピペはいまや現代文化とも呼ぶべき事象で、大学の学部生が授業の課題等に対する提出レポートや、就職面談希望会社に登録するエントリーシートを見ればコピペ全盛で、それを見させられる方はいやになる。しかし、それを見抜けない方がおかしい。見抜いて厳しく指導・評価すべきである。ましてや、論文や報告書等において、既往論文等のサーベイは当然に行うべきで、引用もルールに従って適正に行うべきである。これは研究者としての基本的素養であり、そういう躾をきちんと指導者は教育すべきであり、土俵を提供している大学、学会、投稿雑誌等はそうしたルール遵守の徹底とそのための支援をすべきである。

一方で、きちんと指導・支援をせず、結果のみを求めるなら、能力のある人間はより大きな成果が得られる可能性が高い海外に行って勝負した方が良いということになり、人材の流出を招くことになる。

STAP細胞論文の疑惑騒動を奇貨として、改めて、イノベーションを起こすレベルの研究者の育成・支援をどうするか、組織の論理や短期的利益に左右されない研究者魂をもった研究者の育成・処遇をどうするか、今一度、考え直しても良いのではないか。大学、研究機関等は、短期的な経済効率性だけではない基準が必要なのではなかろうか。

いまだに事実データが後出しされたり、自己処理トラブルが頻発している福島第一原発のその後の報道と、今回のSTAP論文のつきぬ疑惑報道に接していると、日本の専門家、技術者、研究者の良心、矜持はどうなったのか、ある意味の日本の知の溶融を感じ、むなしい。日本の知のレベルを維持するだけでなく、新たな知が励起し続ける仕組みの創発に向けて考えてみたい。