9.11 アメリカの同時多発テロ10年、日本の大震災6ヶ月に思ふ

2011年9月11日は、東日本大震災・フクシマ原発事故から6ヶ月、そしてアメリカの同時多発テロから10年という節目の日であった。

アメリカは10年前のこの日を境に対テロ戦争に突入し、結果としてアメリカの疲弊を招き、アメリカ一極集中という状態をもはや維持できない状況に至っている。アメリカが大きく変質したきっかけになったと言える。

一方、東日本大震災も、日本における戦後以来の流れを大きく断ち切る事象として位置づけられる。東日本大震災は、自ら変われず、「失われた10年/20年」と「ゆで蛙」状態にあった日本を覚醒させた。フクシマ原発事故は未来へのリスク問題を顕在化させた。短期的な時間軸から、数百年、千年、あるいは万年単位での時間軸を現実的問題として考えさせることとなった。

地価バブル崩壊以降、戦後以来の数々の神話が崩壊してきたが、今回の大震災で残されていた神話もそして権威も崩壊した。これまでの延長線上の思考、対応が無意味化し、本当の意味でのパラダイムの変化を、破壊的イノベーションを余儀なくされる事態に入ったと言える。

もはや「戦後」ではなく、「大震災後」と時代区分される時代への大きな変わり目を迎えたと言える。価値観を変え、仕組みを変えざるを得ない。生き様を、行動を変えざるを得ない。当然、そこには混乱が生じる。覚悟すべきである。歴史観をもった骨太の視座が、行動が求められる。

こうした歴史的な時代の変わり目においては何が正しいかは誰も判断できない。一人の知ではなく、多くの叡智がオープンに結集し刺激しあい、新たな叡智が自律的に生み出されるのを期待するしかないのではなかろうか。

従来はこうしたことが技術的に難しく、代議制による議会、行政、あるいはマスメディアがこうした場を主導していたが、WEB時代においては個人が直接的に集結することは難しくなくなった。ソーシャル・コミュニケーション、あるいはソーシャル・コラボレーションがコスト的にフリーで可能となった。人類史上初めて、空間的制約、組織的制約、コスト制約を超えたバーチャル・プラットフォームという手段を使える時代に入っている。

今一度、こうした視点で、現在起きている事象を冷静に見つめる必要がある。9.11は時代の変質を惹起した歴史に残る日となろう。誰かが何かをしてくれることを待つのではなく、自ら新たな時代に向かって自律的に創造的に生きたいものである。