[書評] 「知の衰退」からいかに脱出するか?

「知の衰退」からいかに脱出するか?大前研一著、2009年1月30日初版第1刷発行、光文社

この本を読むと、著者が考え実践してきたことのつながりが見えてくる。「知の衰退」を危惧し警鐘を鳴らし、「考える」個人・国にすべくいろんな事を試み、今も実践しているが未だその目的達成できずにいることが分かる。それだけ、「知の衰退」を押し留めることが難しいということを思い知らされる。

本書の至る所に出てくる「集団IQ」、「低IQ社会」と言う表現・用語は、何となく人を小馬鹿にした表現でなじめないし、本書全体にわたり、「世界を相手に1回の講演料5万ドルをもらえる」のは自分しかいないだろう的な自己PR的表現が散見される。そうした点を考慮しても、著者の危機感、主張にはそれなりに考えさせられる本ではある。

著者の危惧の出発点は「子供から大人まで、すべてにおいて疑問を持たず、自分でものごとを考えない。知の衰退が起きている。それも日本国としての集団において顕著である。すなわち集団知/集団IQの衰退である」という認識にある。

著者は「考えない人間は意見を持たないのかというと、実は”意見”を持っている」と言う。つまり、「考えない人間はエモーショナル(感情的)に反応するが、それを”意見”と信じ、世論もまたそういう意見に収斂していく」という意味での”意見”である。マーケティング(いわゆるプロパガンダを含む)においては、このようなことは以前から言われている。もっと言えば、「考えさせない/意識させない」と言ったところが正しい。意識できなければ考えることもない。

この考えさせない/意識させないものの最たるものが、著者も「愚民政策の最たるもので、これによって国民は税について無関心にさせられている」と指摘している「源泉徴収制」である。この天引き方式により、自分で確定申告をしない大半の人(いわゆるサラリーマン)は自分が納税者(タックスペイヤー)であることを意識しない。意識すれば、もっと税金の使われ方(予算、決算)に目がいく。税金を使用した結果である行政府の決算書をマスコミが取り上げることはほとんどない。家計、企業において決算に意を払わないことはありえない。このことは、年金の悲惨な実態を見れば明らかである。いままで、納めた年金がどのように処理され、どのように使われていたか、全く意識することもなく今日に至ったことの結果が「失われた年金」として今露呈している。

さらに、個人情報保護が大きな問題になっているが、源泉徴収のために会社に家族構成を始めとして家族のあらゆる個人情報を会社に知らしめることになんの声も上がってこない。自分で確定申告をするようになれば、会社にそのような情報を出す必要がなくなる。サラリーマンを止めて初めてこのことに気づかされる。

著者はこうした集団知の劣化・低下を助長した「マスコミ(特に大新聞、テレビ)の罪は重い」と指摘する。そして、それは「個々の記者等の問題ではなく、マスコミの企業としての組織的、体質的問題」だという。確かに、最近、ある機会に記者クラブに投げ込みをしたら、なんの問い合わせも確認もないので記事にはならないと思っていたら、しばらく経っていきなり記事になって驚いたことがある。関係者になんの確認・確証も取らずに投げ込んだ資料だけで記事にするとは驚きである。マスコミもまた考えていない証左であろう。

そういう劣化した組織の体質が反映されるマスメディアである新聞やテレビの内容は確かに劣化している。新聞は何となく既視感(この場合は既読感)を感じるし、テレビは観るに足る番組がほとんどない。個人が発信するネットでの生の情報(メルマガ、Blog、you tube、・・・)に世の中全体がシフトしていくのは当然かもしれない。著者もここ「10年ほど新聞を読んでいない」と言う。

そして、「政治家、官僚、メディアなど社会を引っ張っていくべき人間たちの劣化が結果的に日本全体の集団IQを落としているが、そのなかに企業トップも加える必要があり」、世界レベルで丁々発止できるのような「盛田昭夫氏」や「大前研一」の後がいないと言う。「経済を知らない裁判官」もその中に加えるべきと言う。さらには「国民も知の衰退に荷担している」という。もうすべてダメだという。

国民も問題だという例として、「官製不況」と「ゼロ金利」を挙げる。例えば、耐震偽装問題が起き、規制強化され、その結果、「世の中が偽装で騒がれる前より景気が悪くなったのだから、官僚ばかりか、社会全体がバカになったとしか言いようがない」と言う。「一般大衆は自分で考えることを放棄し、すべて他人任せ、つまりはお上頼みにしてしまい、政府が規制は任せろと突き進む」ことが、誰を喜ばすことになるか、どれだけのコスト高になるか、考えたことがあるかと問う。つまり、「官製不況には、国民側の知の衰退も荷担しているのである」ということになる。

金融においても「ゼロ金利でも銀行にお金を預け続ける国民」は知の衰退と言う。確かに、参議院予算委員会調査室によると、1999年以降のゼロ金利政策量的緩和政策による平成4年〜平成17年の間の[軽減利子−逸失利子]は

 家計部門:−249兆円

 企業部門:264兆円

 金融部門:41兆円

 一般政府:19兆円

と家計部門の資産が企業部門にシフトしている。結果として、企業は豊かになっても、家計・個人は貧しいという実態がここにある。

「ゼロ金利によってあなたの預金金利が銀行に移転され、その追い貸しによってゾンビ企業が息を吹き返して、バブルによる損失の穴埋めが行なわれたのである。本来はバブル崩壊の直後に企業の破綻処理によって株主が負担すべきだった損失を、15年かけて預金者が負担することで、日本経済は表面的には回復したのだ。それを”ゼロ金利で日本経済は回復した”などと喜んでいる人々は、つくづくお人好しである。」と池田信夫氏もそのブログで語っている。

さらに、国際的には、「欧米の国民と日本国民の間には経済・金融知識に関して圧倒的に勉強量の差があり、海外の投資家のおいしいところを持って行かれ、常にババを引かされる」と著者は指摘する。

確かに自らの人生を振り返っても、「金持ち父さん、貧乏父さん」のような個人レベル、家計レベルでの金融資産の運用リテラシーがない。教育されていない。従って、金融資産運用においてリスクを取る行動ができない。行動しているように見える人はリスクが見えていない。著者は「リスクは分散すべきものなのに、一番リスクの高いところ、つまり日本国内にお金を集中させている」と嘆いている。つまり、著者を含め多くの方が指摘するところであるが、1,500兆円の個人金融資産をどう活用・運用するか。この金が生きた形で動き出せば日本の活力が取り戻せるが、利息の付かない単なる財布代わりとして邦銀に預けているのが実態である。

「日本が明らかに『知の衰退』期に入ったのは、小泉政権が誕生してから」と著者は指摘している。これは、2005年9月の衆議院郵政選挙」と2007年7月の参議院年金選挙」の国民投票結果を指している。「○×教育で考える力を奪われてしまった『国民はバカだから複雑なことは考えられない。単純なことしか通用しない』ことがこの選挙で証明されてしまった」、「国民に苦労する覚悟ができていないと、この国は衰退する。いつも安易なことばかりに走り、耳に優しい言葉だけに踊らされている間は『○×ゲーム』の選挙からは逃れられない」。「○×しか訴えない政治家、○×以外を好まないマスコミ、○×以外を聞きたくない国民、この3者がそろって、日本を衰退させてきたのである」。つまり、「知の衰退」の根源は教育にあるといっている。すなわち、「日本は十分すぎるぐらいの危機にあるのに危機感が持てないくらい知が衰退してしまった」が「その原因は偏差値教育と○×式教育に行き着く。60年日米安保・大学紛争以後、政府は国民教育を愚民政策に転換した。その象徴が偏差値教育である」としている。

確かに「偏差値」は”学生のレベルの輪切り”であり、結果して、”大学の偏差値による格差の明確化”、”大学内の学生の一定水準内化による突出した学生がいなくなり、活気がなくなった”等の話を先生方からよく聞く。特に、地方の国立大学の学生の水準が落ちたという事実がある。何をしたいかではなく、偏差値で進学する大学、学科が決まる。入学自体にチャレンジがなくなった。結果、地方の大学に活力がなくなった。そして、地方全体にも活力がなくなった。著者はこの結果事象をみて、「地方の国立大学は役目を終えた」、「制度疲労の最たるものだ」と言っているがこれはやや短絡的結論である。著者のいうところの偏差値制に問題の根がある。

著者は、「この40代を中心とした偏差値世代」の次の世代である「少年ジャンプ世代」は「偏差値世代よりもさらに考える力を失っている」と言う。そして、これに続くのが「ネットを本格的に利用した初めての世代」である「ゲーム・キッズ世代」で、この世代の先端は既に30代半ばになろうとしている。この世代に続くのが「ケータイ世代」で、「これまでの日本人とは全然人種が違う」。たしかに、自分の娘を見ても、寝るときでも携帯電話を離さない。携帯電話代を払うためにアルバイトする。本末転倒している。

「いまの世界は、答えのないものに取り組む」時期である。著者は「すべての質問には答えがある前提の指導要領」に問題があると言うことであるが、学問は基本的には過去の知識の体系化であり、問題は質問の仕方にあるのではないか。確かに、ある大学で教えていて、『答えはひとつではない』とレポート課題を説明したらキョトンとしていた学生の姿が目に浮かぶ。著者の言う「答えはない」のではなく、「答えは幾通りもある」のであり、どの答えを選択するかを選び出す能力が問われているのである。著者の考えている”教育”概念は基礎コース(高校までの教育)ではなく、アドバンスコースレベルの話であり、大学・社会人の教育の話ではなかろうか。

そうした中で、著者が心配しているのは「工業化社会で重要であった平均値人材」ではなく、グローバル社会を主導する「突出したリーダー」がこのままの日本では現れないということである。「リーダーとしての仕事をしてはじめて高い報酬を得ていく−こういう考え方が残念ながらいまの日本にはない。人に言われたことをやるだけの人なら、途上国の賃金に甘んじなくてはいけない」。

著者は「3種の神器(英語、ファイナンス、IT)とリーダーシップ」を大学時代に磨けと言う。「世界の標準語(英語)ができる人材を育てなければ、経済成長しようがない」、「気がつけばアジアで日本人だけが英語を話せない」。確かに、著者のいう3種の神器はツールであり、実学であり、先端の技術を使ってこそ身に付く。先端の技術は現場にいてこそわかる。要するに、学問ではない。つまり、これらは専任教員・教授ではできないということになる。

ところで、こうした「低IQ社会で得をしているのは誰か」ということで、国の債務、年金問題を例に取り、「現在の日本のシステムは、政府側にいる官僚機構だけが得をして、国民は限りなく損をするという構造になっている」。そして、「それを追求しない政治家も識者もメディアにとってもまた、低IQ社会のほうが好都合」と指摘する。そして、「国が国民をだますテクニック」として、次の3つを例示している。

?看板の付け替え(道路公団の民営化、社会保険庁日本年金機構への移行、借換債、財投債)

?知らせない(地方自治体の退職手当債)

?知らないふりをしてごまかす(非核三原則

2番目に得している例として挙げているのが、「外国人投資家」。「グローバル資本主義の中でいいように翻弄されている」。その象徴が「円キャリートレード」とのこと。

3番目が「投資ファンド」。「日本人の一種の信仰とも言える価値観である”汗をかいて稼いだお金はきれいだが、濡れ手で粟で手にしたお金は汚い”」で本当に良いのかと問う。要するに、「低IQの政府の下でおとなしく、外国人投資家、投資ファンドなどが自国の市場で好きなように暴れているのをただ見ているだけでは、われわれは日ごとに貧しくなっていく。この状態が続く限り日本の集団知は向上することはなく、日本という国はどんどん衰退する」と心配している。

そこで何をすべきか。「国に頼らず、自分で立つ。目覚めた個人、リスクを取る個人になれ」。そして、「結論は、低IQ社会を変えていくためには目覚めた個人”を1人でも増やすしかない。決して他人任せにしない。国に任せない。自治体に任せない。そして会社に任せない。自分でリスクを取りに行く」。この例として「母国に期待していないグローバル企業」を挙げ、「日本そのものがリスクである」のだから個人もそのように生きるべきだという。

しかし、「国民の多くが目覚めるかとなると、一朝一夕では変わらない。しかし、多くの国民が目覚めなくても、傑出したリーダーが登場して国民を引っ張れば国は変わる。日本を変えようと思ったら、1人の人間で変えられる」。しかし、「いまの日本の政治家には、本物のリーダーになりうるような人材はいない。他の分野には有能な人材はいても政治家にはならない」。自身も都知事選挙に出て敗れ「この世界には二度と踏み込まないと決めた」とのこと。

最後の「この国には危機感がない。危機感が国民に共有されないため、今のところ誰に何を言っても徒労に終わる」との嘆きが著者の本音か。

こうした著者が唯一希望を持っていると思えるのが、ネット社会。「ネットは集団知を高めるためには欠かすことのできないツールである。ネット社会は人間一人ひとりのものではなく、誰もが参加しお互いを高めていくことで発展する。WEB2.0の世界は集団知を信じる事で成り立っている」とし、著者自身 AGORIA(アゴリア)というディスカッション機能ベースのSNSを運営している。

そして、「ウィキペディアこそが””これぞ集団知の世界”である。日本で言えばアルク社の”英辞郎http://www.alc.co.jp/もまた集団知の世界だ。Googleも世界中から”知”が集まる点では同じである。集団知を信じなかったら、これからの世界ではもうやっていけないことになる」。要するに、「ネット社会はリアル社会よりもサイバーリーダーシップが誕生しやすい土壌」があるが、「リアル世界には、コミュニケーションが一方向のため、意見を戦わせて高めていく仕掛けがほとんどない」ということで、著者の結論は「サイバーコミュニティによって世の中を変えていくことにトライした方が、リアル社会を変えていくよりも可能性がある。WEB2.0の世界はあらゆる人々が世の中を変える参加者になれる、その知が集合して何かができる、そういう世界である」ということになる。しかし、「このサイバー状の集団知をリアル社会にアウフヘーベンする方法はまだ見いだされていない」とここでも嘆きが出てくる。

何れにしても、著者のいう「集団知」をサイバー社会で創り上げ、リアル社会に浸透させていく仕組み/仕掛けをなんとしても作り出さなくては日本の将来はないということである。自ら、小さな波紋を起こしてみたい。