読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

伝統芸能「講談」

早1ヶ月前近い話になるが、「第38回NHK講談大会」の収録を虎ノ門にあるニッショーホールへ見に行った。7月26日午後2時から始まり、午後5時半まで。これも長丁場である。3回分の放映収録をしているとのことで、演者、演目は次の通りで、長丁場な訳である。

日本の話芸」(放送日は未定とのこと):一龍斎貞山<演目=眠り猫>、一龍斎貞心<演目=朝顔日記>

「第38回NHK講談大会」(9/6放送予定):神田紅<演目=紅恋 源氏物語>、一龍斎貞水<演目=団蔵と多実之助>

「講談特選」(12月放送予定):田辺一鶴<演目=高野長英>、宝井馬琴藤堂高虎 出世の白餅>

始めて講談を生で見聞きしたがなかなかの迫力である。落語とはまた異なる話力のすごさを感じた次第。その一つは、こうしたストーリーを持って語り聞かされると、歴史的な人物や事柄あるいは物語りがものすごく身近に感じられ頭に残ることである。もちろん、事実と脚色を織り交ぜ効果的に仕立ててはいるが、本を読むだけではなかなかこうはいかない。

第二に、人間の記憶力のすごさである。演目にもよるがあれだけの長い話を記憶し一気に感情を込めてしゃべるには相当な記憶の鍛錬があったものと容易に思料できる。田辺一鶴などは昭和4年生まれであるから79歳の高齢にもかかわらず、高野長英が奥州水沢から江戸までの街道を朗々と諳んじることには感心するしかない。途中、詰まると自分に怒りながら一呼吸おき、続けていく様をみると思わず頑張れと言いたくなる。

第三に、声の違いである。これは落語の世界でも同じ。各演者それぞれ声が違うのは当然であるが、聞いていてよくしみ込んでくる声と、やや聞き取りづらい声がある。人に聞かせる話術の世界で、持って生まれた声の質はいくら鍛えても本質的にはいかんともしがたい。プロはやはり持って生まれた才能を磨き上げるということであろう。自分の持って生まれた才能がどの道のプロとして向いているか、それを見極め、下準備するのが青少年期であるが、現在の教育制度はそうした個々人の持っている能力には関係なく構築されている。これでは、世界に通用するプロあるいはクリエイティブは人材は生まれ難い。教育の本質、仕組みを改めて考え直す必要がある。

第四は、伝統の世界にも転職組と女性の進出があるということである。一龍斎貞心は劇団こまどりに14年ほど在籍してから講談の世界に入っている。神田紅は文学座研究所卒、早稲田大学中退、元女優ということである。生粋の講談界育ちとは異なり、活躍の場もインターナショナルとのこと。神田紅などは座っているばかりでなく、立っての話も多く、もはや一人芝居の風である。こうした異質の血がその世界の革新に貢献するのであろう。これは、講談の世界だけではなく、一般の組織においても同じである。その世界になれすぎるということはある意味怖いことであり、時々は他流試合が不可欠である。大組織になるほど、他流試合の場が少なくなり、感性が鈍る。そうした意味において、株主総会はまさに年に一度の他流試合であり、大いに意味ある場である。

何れにしても、講談なるものを始めて生で見聞き、こういうものを是非、小学生や中学生あるいは高校生時代に聞かせて欲しいと思う。いまは、短い言葉、さらには短縮語が全盛の時代で言葉が持つ本来の力に接する機会がない。伝統芸能を青少年の教育に組み込む仕組みがもっとあっても良いのではないかと感じた次第である。