個人の趣味と社会的迷惑・社会的マナー

タバコをやめて約1年半になる。何度か禁煙を試みたが今回は何故かすんなりストレスもなくやめられた。タバコを止めて分かったことがある。

その一つが、タバコの臭いである。自分で吸っているときは常にその臭いの中に自らがいるため、タバコの臭いが分からない。恐らく、タバコの臭いのある状態が常態の臭いとなっているからであろう。

しかし、娘がカラオケ&ゲームセンターでアルバイトし始めて、タバコの煙の中でいるためか、帰ってくると全身からタバコの臭いが漂ってくる。服とか髪に臭いがついているのである。実に嫌な臭いである。ああ、自分もかってはこういう臭いを廻りに発していたのかと悟る昨今である。確かに、電車の中で隣り合わせた人や、通りで人とすれ違ったときに、タバコの臭いがする人がいる。ああ、タバコを吸う人なんだなとすぐに分かる。

さらに言えば、至近距離で会話をしているときに、強烈にタバコの臭いを口から発する人がいる。ヘビースモーカーに多い。これに歯周病なんかが合わさっているともっとひどい口臭となる。さすがにこの臭いは、タバコを吸っていたときから分かっていたが、相手に面と向かってなかなかそうとは言えない。

何れにしても、体中から臭いを発していることはタバコをやめて始めて自覚できた。タバコを吸うたびにうがいをするとか、服に消臭剤をかけるとか、「臭い対策」がマナーとして必要だなと感じる次第である。

二つめが路上喫煙である。実は長い間、勤務先が大手町にあった関係で東京駅の丸の内側にいたが、1年前から八重洲口側に異動してきて始めて分かったことがある。それが路上喫煙の違いである。

丸の内側から八重洲側に勤務地を変え、すぐに違和感を覚えたのが、路上・歩行喫煙者、路上に捨てられたタバコの多さである。八重洲側の街路は歩道の狭いところが多い。そうした歩道で路上喫煙、さらには歩行喫煙者が多いのである。最近はさすがに少し減ってきたかなという感じがしないこともないが。先日もJTのロゴを付けた一団がキャンペーンかなにか良く分からなかったが吸い殻拾いをしていた。

路上喫煙者、歩行喫煙者が殆どいなかったエリアに居た者から見ると非常に気になる。まず、すれ違うとき危ない、タバコの煙が漂ってくる、臭う。そして、捨てられたタバコが路上の隅にたまっている。汚い。

タバコの吸い殻が路上に捨てられると、排水溝に入り、ニコチン、タールがしみ出し、水の汚染、土壌の汚染に繋がる可能性を否定できない。その昔、タバコを農場の敷地内で捨てるなと、グリーン・ツーリズムでヨーロッパのある農場を訪問したときに叱られた経験を思い出す。

社会的な要請に基づき決められた限りはルールを守って喫煙しないと、喫煙者は自らさらなる制約を招くことになる。

三つめが灰皿である。喫煙コーナーに置かれた灰皿ではない。飲食店に行ったとき、テーブルに置かれる灰皿のことである。もちろん同じ仲間内での飲食時での話である。

確かに、飲食時にタバコを吸いたくなるのはかっての経験からよく分かる。ある出張先のある場所で、食事をするとき、テーブルが狭いのに灰皿を置き、タバコを吸い始めた者が居た。狭い場所で料理の横に灰皿があると、せっかくの料理が台無しになる感じをする。タバコの灰、吸い殻が舞い上がり料理に入らないかと気になる。テーブルの上にタバコの灰が落ちることはよくあることである。服にも落ちて、時々タバコの焦げ跡ができることも少なくない。買ったばかりの服に焦げ跡を作るとガックリする。

少なくとも、飲食時の灰皿はテーブルの下に置くなりして、灰がテーブルの上に飛散しないようにする、他人の目に触れないようにする、喫煙者はテーブルの端に固まるとか等々、最低限の気配りをしないといけない。それが非喫煙者や料理人に対する喫煙者のマナーではなかろうか。

以上のようなことをタバコを止めて始めて自覚したわけである。ということは、大学4年の秋からタバコを吸い始めてから約30年間、周りにこれほどの多大な迷惑をかけていたということであり、大いに反省する次第である。

次に電車内のことについて。電車に乗っていると、周りの乗客のヘッドホン等から漏れている音楽が聞こえてくる。なぜか男性客に多い。他人にとっては聴きたくもない音楽を周りに無理矢理聞かせ、1人悦に入っている。他人の趣味の押しつけほど迷惑なものはない。例え本人にとっては音楽であっても、他人にとっては単なるノイズでしかない。眼に触れるものは見なければすむが、音はそうはいかない。いわゆる「騒音おばさん」事件を他人事のように見ている人の中に、電車内で同じことをしているが多いことを認識して欲しいものである。

ヘッドホン等のメーカーには、もっと音の漏れない(=他人に迷惑をかけない)ものを考える社会的責任があるのではないか。個人の趣味を移動しながらでも味わえるようにした貢献は認めるが、ここは一つ、社会的迷惑対策として、音響機器メーカーに頑張って欲しいものである。

電車内で気になる二つめが電車内で一心不乱に化粧している女性だ。

電車の中で化粧をする女性のマナーについて、当初はいろいろ騒がれたが最近はすっかり見慣れた光景となってしまったのかさほど話題に上らなくなった。この電車内での化粧、すなわち自らの顔かたちの変化の過程を衆人の前にさらけ出す行為をどうとらえるべきか。また、そういう行為が広まってきたのは何故か。

そもそも化粧は古に於いては狩猟、祈り等の儀式における今で言うペインティングに始まるとの説がある。太陽の光を和らげるために用いられたという説もあるが、これなどは今風に言えば、スポーツ選手が目の下につけている照り返し防止のシールと同じようであろう。日本においても中国の魏志倭人伝邪馬台国の日本人(当時はまだ日本人とは言わないが)の男性が顔に入れ墨をしていたことが記載されている。

要するに、宗教的な儀式のため、部族のアイデンティティの印として、闘いの際のおどしとして、そして女性への求愛等々、人間が生き抜くことが至上命題の時代には集団としての目印、動物本能としてのオスの表現等であったものと思われる。恐らく、生きることに余裕ができた頃から女性の化粧化へと転嫁したのではなかろうか。そして、世の中が平和になり、再び男性の化粧化へと回帰しているのか。このへんは、歴史・民族学者の見識を聞きたい。

さて、電車内での化粧であるが、これは顔の見え方/見せ方の変貌のプロセスを見られることに対する恐れがなくなったということであろう。あの鏡を見つめている真剣な眼差しを見る限り、周りのことは視野に入っていない。他人の眼(評価)よりも自己満足の方が大事としか言いようがない。あの一心不乱な眼差しを見ていると周りは口を出せない。

化粧品メーカーは化粧品を売るまでしかケアをしていないように見えるが、売った後の化粧品がどのような場で使われているのか、まさにケアする必要があるのではないか。例えば、タバコメーカーはタバコを吸う場所の提供を始め、タバコを買った後のケアにそれなりに気を遣っているようであるが。

詰まるところ、メーカーは売るまでではなく、売った後に社会問題を起こさないように使われ、最後は環境問題を起こさないよう廃棄されるまで、きちんとフォローする責任がある。そのようにできないなら、そもそもモノを作らないという覚悟が必要である。これは、企業の「社会的責任」というよりも、企業としての「社会的マナー」ではなかろうか。

作成日: 2007年12月28日(金) 22時42分