[書評] プロ弁護士の思考術

矢部正秋「プロ弁護士の思考術」、2007年1月29日、PHP新書PHP研究所

久しぶりに腑に落ちる本に出会ったという感じである。考えることを職業とするシンクタンクに長くいた者にとって、誠に腑に落ちる。一気に読んで、もう一度じっくり読んで見たくなる本である。1943年生まれの63歳、ビジネス法務、国際取引法務を専門とする弁護士として到達した一つの生き様=考え方の基本(達観)を述べている。ギラギラしていなくて、淡々としているのが実に良い。

弁護士との接し方・使い方、裁判に対する心構え等、実務的にも有益なノウハウが書かれているが、この本の価値はそうしたことではなくて、ものの見方・考え方・処し方に実に味わい深いものを与えてくれるところにある。

本書の構成は、弁護士業の経験から会得した「物の考え方」の中から選び解説した七つの思考法を順次説いていく構成となっている。

?具体的に考える −話の根拠をまず選りすぐる−

まず「抽象論、建前論、精神論は、物事を具体的に考えない悪しき例である」と弁護士らしく言い切っている。

そして、おもしろいのが行動、感情に対する注意喚起である。「人間は理性よりも感情に基づいて行動する。しかし、感情は具体的思考となじまない。従って、具体的な手順を考えることは、理性で考えることの入り口に立っているということである。具体的に考えると現実的になる。手順を考えることは、物事を具体的に考える一環である。手順を考える習慣を身につければ、状況に流されるのではなく、主導的に状況に関与できる。待ちではなく攻めの姿勢を保つことができる」とのこと。そのとおりである。

?オプションを発想する ―「考えもしなかった」ことを考える―

この本を読んで最も参考になったのが、この「オプションを常に考える」ということである。最近は単純な二分法的な表現・論議が多いが、「ビジネスには正解はなく、選択肢があるだけ」で、「深刻な問題に直面したとき、複数のオプションがあれば心理的に楽になる。オプションを考えることにより、未来への漠然とした不安が失せ、心理的に落ち着いてくる。オプションがないと袋小路に追いつめられる。選択肢があれば余裕が出てくる。」とのこと。

そして、「オプションを考えるとき、決定打を狙ってはいけない。人間の本性として唯一の決定的な解決策を求めたがるが、そんなものは存在しない。決定的なオプションは予想外のリスクがつきまとう。多くの小さなオプションを合わせ技として並行的に実施することが原則」と言う。今後、自らも実践してみたい。

?直視する ―疑うことで心を自由にする―

「世間のいう『権威』ほど信じられないものはなく、権威はしばしばいかがわしい」と言い、これを“2割のもので8割のものが生み出される”パレートの法則で例え、「要するに、有名人の8割は実力と名声が一致しないということ。権威の8割は作り出された虚像である。報道と実態のギャップは空恐ろしい」と言う。

さらに、「儒教、封建制、官僚制の伝統は、我々に『権威への信仰』を植え付けてきた。事実を見る眼を曇らせている。その曇りを取り除き、事実に至るには、『懐疑する精神』こそ最も有効」とのこと。そして、例えば「封建制度の残滓として、『上申書』『割愛願』『お上』」等をあげている。確かに、このような用語が今でも生きている。特に、役所や大学関係の文書に多い。

「官民問わず、大きな組織ほど巨悪をなす。人はやすやすと堕落する。」最近の粉飾、偽装、汚職を見れば納得。そして「人はモラルによって生きているのではなく、利害打算や保身を旨として生きている。利害打算の視点から見ると、紛争の将来を読むことができる。利害の視点から見た方が、出方を予測できる。」この見方は、紛争だけでなく、組織内の葛藤にも使えるのでは。

?共感する ―他人の正義を認めつつ制する―

まず、共感する前提に「実社会に起こる問題に『正解』はない。」「人は自分の見たいようにものを見る。考える場合にも、必ずその人の視点・基準から見ている。その基準も不断に変化する。」従って、「『多数意見』はあっても『正しい意見』はない。自分の意見も多数の意見の一つにすぎない。とかく、多数意見を正しい意見と錯覚するきらいがある。」という認識が必要となる。

そして、「時代の風潮や偏見と闘ったのは、常に少数者であった。時代の偏見にとらわれない少数者や反対者は、社会にとって貴重な果実をもたらす。時代を見通すのは、一握りの知的少数者である。時代の熱狂が冷めたとき、多数者は初めて少数者の意見の意味を知る。」社会が得た果実をそうした知的少数先駆者にどのように還元するのか。会社でも同じである。先達がまいた種をたまたまそのときの当事者がすべて収奪・独り占めするのはおかしい。そのためにも、事実の歴史をきちんと書き残すべき。

このような認識に立って、共感には、「情緒的共感性(他人の痛みを自分の痛みとして感じ、他人の喜びを自分の喜びとして感じる能力)」と「認知的共感性(自分の抱える問題を解決するため、それに必要な限度で他人の立場に共感する能力)」があり、「認知的共感性のあることが交渉者やリーダーの大切な資質」と言う。

?マサカを取り込む ―不運に対して合理的に備える―

このマサカに備えるには「ナマクラ」な考え方が良いという。つまり、「予想外の事態は日常茶飯事に起きている。二重三重の手を打つことが肝要。かつ、一端決めた方針に執着せず『そうかもしれないし、そうでないかもしれない』とナマクラに考える。こうして、状況の変化に即時に対応することができる」というわけである。

そして、「いったん決定したら後戻りができないような意志決定は、できるだけ先延ばしにする方がよい。決定を遅らせることができれば、その間に多くの情報を入手し、より適切な決定ができるからである。なのに、殆どの人は事実が曖昧な段階で方針を決めてしまい、決定すると猪突猛進する。その後、新しい事実が発生しても柔軟に方針を見直すことができない」と指摘しているが、これは行政、企業を問わず思い当たることが多いのでは。

「一応の方針は決めながらも確信はせず(決めつけず)、ナマクラでその後も対処していく。状況が変化したら、それに連動して対応を変えていく。時間とともに事態は刻々と変化する。状況が変化しているのに、以前に決めた方針に固執していては、変化に対応できない。日々の小さな状況の変化に対応する心構えを持つと大きな変化にも対応できる。」これは、ダイナミック・プログラミング(動的最適法)の考え方に近い。

?主体的に考える ―「考える力」と「戦う力」を固く結ぶ―

物の考え方には三つのタイプがあり、「『密着型』よりは『半身型』、さらに『俯瞰型』のほうが有益」と言っているが、要するにどれだけ冷静な立場でものを考えられるかということだろう。しかし、これは当事者になるほど難しく、第三者としてのコーチングやコンサルティングの存在意義がここにあると思われる。

その上で、「受け売り思考を徹底的に削り、自分の頭で考えるには、どんな場合でも、『関連する事実を確認』し、『自分の判断で根拠を吟味する』ことが必要」で、「他人がなんと言おうと、確かな根拠がない限り、確信してはならない。根拠が不確かなら、ナマクラで対処するのがよい」とのこと。

そして、弁護士らしく、「法律に書かれているからといって、権利が自動的に実現できるものではない。侵害者相手に不断の闘争をしなければ、権利は確保できない。権利は日々の闘争の中から創造されるものである。訴訟が闘争というのはそういう意味である。」「強硬策をとる場合は、慎重にも慎重を期して、相手の出方を読まなければならない。こちらが強硬策をとれば相手の強硬な反撃を呼ぶ。そして、それを上回る強硬手段をとらざるを得ない。事態は泥沼化してしまう。強硬手段はオプション発想の貧困を意味する。」と言う。なるほど。

?遠くを見る ―今日の実りを未来の庭に植える―

ここにも「考える遠近法」というおもしろい表現が出てくる。つまり、「物事には必ず予兆(シグナル)がある。五感を研ぎ澄まして現実を凝視すれば氷山の一角から全体像を読むことができる。ときに近くを見て、ときに遠くを見る『考える遠近法』こそが自由自在に考えるために必要」とのこと。

そして、身につまされる例を挙げている。「例えば、不正調査の出発点は次の三点セット。

 a. 交際費を洗う

 b. 出張費を洗う

 c.社用のパソコンや携帯電話の使用歴をチェックする」

この三点セットのc.を「マンナワー(人工)を洗う」と変えれば、税務調査や内部監査と同じことになるのでは。要するに、「三点調査はその他の不正行為を推測するシグナルである。不正の根はもっと深い、他にもやっているに違いないという視点が必要」とのこと。

そして、「遠くを見る」とは、「大局から、スタートとゴールを決める)」ことであり、「落としどころ(結果)からスタート点を考える」ことであり、「状況に流され、遠くを見ることをしない日本的思考の欠点を自覚することが、遠くを見る第一歩」と指摘している。

さらに、経営者の備えるべき条件は「志の高さ」であり、「その結果として、何を人生で達成したか、そのためには『遠くを見る目線』が必要」と言っているが、最近はまさに「志」のない近くを見すぎている経営者が多い。

結局、「物事に固執せず、心を空っぽにして、普段の心構えを失わず、自由奔放にオプションを考え、対策を打ち、処理していく。過去を悔やむことも、未来を悩むこともない」ということになるようであるが、なかなかこのような達観の境地に到達し、すべてに優しくすべてに冷静に、そして淡々とその結果を受け入れるにはまだまだ時間がかかるのではと自省するばかりである。