「働かせ方改革」から「生き方改革」へ

働かせ方改革

最近、「働き方改革」が議論されているが、その実相は「働かせ方改革」でなかろうか。そもそも、国主導で、個人の働き方を云々するのはおかしい。人を雇い働かせる側に対して、働かせ方を規制するのであれば分かる。長時間労働問題、過労死問題等を引き起こさないための対策や、ワークライフバランスに配慮した対策、これは全て雇う側の働かせ方の問題であり、「働かせ改革」と云った方が目的、論点が明確になる。

 

「働き方改革」の実現に向けて、厚生労働省HP

仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章 - 「仕事と生活の調和」推進サイト - 内閣府男女共同参画局

ワークライフバランスを歪める長時間労働をしなくてもすむような経営改革、業務の仕方の改革がなければ、業務の生産性が上がることはなく、単に働く側に就業時間の短縮を強いるだけになり、さらなる働く側のインセンティブの低下、疲弊を惹起する。経営者側の論理優先ではなく、経営者側の経営者自身に対する経営改革、働かせる側に対する業務の仕方(働かせ方)改革こそが問われるべきではなかろうか。その上での働く側の「働き方改革」であり、「生き方改革」というのが本来、あるべき順序ではなかろうか。現在の日本企業の劣化は働く側の問題ではなく、経営の問題であるからである。

長時間労働や過労死問題等の根源は奈辺にあるか、それは業務の生産性にある。わが国の生産性は極めて低く、結果、賃金が上がらない ⇒ 諸費力(購買力)が落ちる ⇒ 価格を下げる ⇒ 総人件費を下げる ⇒ 人手が足りず、長時間労働でカバーするしかない ⇒ 企業も人も疲弊する ⇒ 生産性が上がらない ⇒ 競争力が低下する。全ては、生産性それも付加価値生産性の問題である。結局は、経営や生産・サービス提供の仕組みの問題であり、個々人の働き方以前の問題である。

 ▼労働生産性の国際比較 2017年版 ~日本の時間当たり労働生産性は 46.0 ドル(4,694 円)、OECD 加盟 35 ヵ国中 20 位~、公益財団法人 日本生産性本部、2017年12月20日

 働き方改革

それでは、個々人の「働き方の改革」とはなにか。それは、つまるところ、個人としての「生き方の改革」ではなかろうか。どういう生き方をしたいか、そのためにどういう働き方を選択するか。人の生き方、生き様は人それぞれであり、それに応じた働き方も多様であって良い。雇われる働き方(正社員、非正規社員、アルバイト等)、雇われない働き方(フリーランス、自営業、起業)、それらを組み合わせた副業・複業での働き方等々が、もっと自由に選択される仕組みにすべきである。「一億総活躍社会」、「生涯現役社会」もそういう意味で、個人にとっては大きなお世話である。それらはあくまでも個人の選択の結果の総体としての表現でしかない。

正社員の残業代が基本給の一部(生活水準維持支出の前提)のようになっていて、残業を減らすと生活水準維持のための収入不足になるのであれば、副業をすれば良い。経営層の副業(他社の取締役等)が許されるのであれば、従業員の副業も当然、許されて然るべきである。欧米では、原則として許されている。人の能力の活用の面からも、人の能力は多様であり、1社の業務にだけとどめておくのはもったいない。ましてや、人手不足の時代に於いては。

働き改革の主要テーマになっている「裁量労働制」や「高度プロフェッショナル制度」も、その議論の内容には首をかしげる。経営者側の総人件費圧縮の意図が見え見えである。そもそも世界の人材獲得競争の中で、高水準の報酬を提示し得ない多くの日本企業に、裁量労働制高度プロフェッショナル制度がなじむのだろうか。なじむと云えるだけの高付加価値経営ができ、高水準の報酬を支払える企業がどれだけあるのだろうか。

そもそも、高度プロフェッショナルのレベルと報酬はそもそもわが国おいて相関しているのか。市場がなければ高度プロフェッショナルでも報酬は得がたい。逆に、市場価値がある分野では、高々1,000万円超程度で、世界を相手に通用する高度プロフェッショナルな人材と云えるのであろうか。なんとなく、未だに、賃金水準が相対的に低い製造業中心に日本の賃金水準が議論されるところに問題があるのかもしれない。

個人の働き方の選択に於いて欠かせないのが、現在の企業で雇われる働き方をベースにした社会的仕組みを個人の多様な働き方の選択を前提にした社会の仕組みに変えることである。企業に依存した社会生活では企業に忖度した働き方、生き方にならざるを得ない。企業に忖度しなくてすむ自律した個人の存在を促す社会制度の実現が、結局は働き方改革ひいては生き方改革に繋がるのではなかろうか。そういう意味で、真の「個人の時代」の到来を待ちたい。